八氣会インタビュー 第三回
"災害現場のリーダーに求められる条件とは"
プロフィール ◇ 大江理一(おおえ りいち)
第11代 会計
昭和56年機械工学科卒業後、東京消防庁に入庁
消防学校での5月間の研修後、杉並消防署に配属となり、その後、東京消防庁本庁と消防署間の異動を繰り返し、途中、自治省(現総務省)消防庁や公益法人へも派遣され、現在は人事部給与課長
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生まれ育った神奈川か東京で働ける職場をと思って
―東京消防庁に入ったきっかけは?
大江: はじめから"大きくなったら消防官になる!"というような気持ちがあったわけではないです。
私は一人っ子だったので、地方への転勤がなくて生まれ育った神奈川か東京で働けたらと思っていました。就職活動で企業を見学しても、いまひとつピンとこなかったこともあり、転勤しても都内に限られる東京消防庁の職員になろうと思って採用試験を受けました。また、仕事の目的が「人助け」で明快だったのも就職を希望した理由です。
―消防学校の訓練は厳しかったのでは?
大江:かなり厳しかったですね。今から思えば良い思い出ですが。
−例えばどんな風だったのですか?
大江:平日は自由時間なんて全く無かったです。今は消防学校の雰囲気も変わって平日も自由な時間があるようですけれど。私達のときは食事も風呂の時間も決まっていました。一緒に採用された仲間の中には嫌気がさす人もいました。私は合気道部で免疫があった分大丈夫だったのかもしれませんが(笑)。
もう少しで大怪我をしていたかもしれない現場もありました。消防の仕事は危険と隣り合わせなのです。
―消防学校を卒業してからの配属先は?
大江:卒業生は都内のいずれかの消防署に配属されます。現在の消防署の数は80です。
消防署に配属されると、管内の情勢等について教養を受けた後、普通はまずポンプ隊員になります。主に消火活動に従事する消防官ですね。私は杉並消防署のポンプ隊に配属されました。
―勤務中に危険な場面に出くわしたことは?
大江:ありますね。危うく大怪我をするところでした。
―どんな現場だったのですか?
大江:ある日の夜、いつものように署内に『出火報』(しゅっかほう=火災による出動を知らせるアナウンス)が流れました。
"杉並区出火報。杉並区○町○番地○号住宅出火"というような内容だったので、すぐ防火服を着てポンプ車に乗り駆けつけました。現場は2階建の民家でした。逃げ遅れた人の確認のため、先輩にくっついて建物の中に入って行きました。
―そこで何が起こったのですか?
大江:火災現場で消防官がすることの基本というのは、『逃げ遅れた人の救助』と『消火活動』です。
その時もまず1階に入り、中の様子を確認しました。大きな畳の部屋で、布団が敷いてあり電灯もついている。煙もほとんどありませんでした。逃げ遅れの人もいないようなので、消火活動に入ろうと廊下に出たその瞬間、今確認した部屋の天井がいきなり崩れ落ち、電灯が消え、目の前が真っ暗になりました。
―うわあ、恐ろしいですね!
大江:実は私達が現場に到着した時、既に消火活動が始まっていて、2階で放水していたので、その水を吸って重くなった2階の床、要するに1階の天井が落ちてきたというわけなのです。改めて、消防の仕事は危険と隣り合わせなんだと身震いした記憶があります。
漫画『
め組の大吾』は読んだことがあります。作者は良く勉強して書いているなあと思います。
災害現場のリーダーに必要とされるのは"疲れに耐えられること"。現場で疲れて思考が鈍っていたら、自分ばかりでなく仲間や被災者に怪我をさせてしまう恐れもあるのです。
―消防官の仕事というのは、いわゆるサラリーマンとどこが違うと思いますか?
大江:環境の悪いところで重労働をすることですね。
現場は足場が悪いし、消火活動はほとんど手作業で身体がきつく、水に濡れて冬は寒い。
―ものすごく体力が必要なんですね!
大江:そうです、そして災害現場は時間に追われ、一刻を争います。
『さて、この"要救助者(救助すべき人)"をどうやって助けましょうか?』などと長々と話し合っている時間はない。だからこそ普段から役割分担を決めておき、徹底的に訓練を積んでおかなければならない。基本的なことは考えなくても体が動くようにしておかなければならない。
隊長は瞬時に的確な判断を下し隊員はそれに従って行動する。現場ではチームワークがものすごく大切なのです。
―隊長さんは、タフでないと務まりませんね。
大江:災害現場で活動するリーダーに必要なのは疲れに対して強いことです。
―と言いますと?
大江:どういう意味かと言うと、体力気力があって疲れにくい、そして判断力が鈍らないことなのです。疲れて頭の回転が鈍って判断を誤ってしまうと、自分が怪我するばかりでなく、隊員に怪我をさせてしまう。それでは人は助けられない。
―なるほど、納得です…。
『クレープ屋』の話が出たとき、硬派な先輩達から"軟派だからダメ"なんていう声は出ませんでした。当時はほとんどの部員が『クレープ』自体を知りませんでしたから。
―話が変わりますが、大江さん達の代から"クレープ屋アイキーズ"が始まったとか?
大江:当時のメポタン祭では、合氣道部は夕方から居酒屋を開いていました。でも私の同期の浅野君が、昼間も店をやろうと言い出しまして。彼がなぜか上野のABABというデパート脇でクレープ店を出していた人に話をつけて、粉の仕入から作り方までみんな教わってきたのです。
―先輩達から"そんな軟派なものはダメだ!"なんて言われませんでしたか?
大江:店を始めたのは昭和52年だったと思いますが、そのころはまだ"クレープ"なんてほとんど知られてなくて、先輩達も何が何だか分からなかったと思います。
―『アイキーズ』の店名はどうやって決めたのですか?
大江:ピザ『シェーキ−ズ』のもじりです(笑)! 初年度から思ったより売れて、2年目以降は大賑わいでした。
夏合宿は苦しかったけれど、山奥での合宿のとき、民宿の近くを流れる小川で見た蛍の飛び交う光景が、幻想的で忘れられませんね。
―合氣道の合宿で印象に残っている場所はどこですか?
大江:夏合宿に2年連続で行った奥只見です。新潟県の小出(こいで)から福島県の会津若松まで走っている只見線に乗って行くところです。
ものすごく山奥で、そこへ行くまでの只見線はトンネルばかりで、まるでクーラーが効いているみたいに車内がひんやりとしていました。
―道場は廃校になった小学校の体育館だったとか?
大江:最初の年がそうでした。それがまた、民宿から自動車で小1時間もかかるところにありましてね、もう合宿後半は、朦朧としながら車に揺られて道場と民宿を行き来しているという感じでした。
―その疲れきって朦朧とした感じ、分かります!
大江:そのとき、自動車の窓から景色を眺めていると、ダムでせき止められて水かさが増し高くなった川面から枯れた樹木が突き出しているのが見えた。幻想的ですごく雰囲気がよかった。
―山奥の合宿って懐かしい雰囲気ですよね。
大江:合宿で泊まった宿舎の脇に小川が流れていましてね。夕方、気温が下がってくると水温との差で靄(もや)が立つんですよ。当時は雪駄ばきでしたから、素足に雪駄を履いて、袴のままそばの草むらを蹴飛ばしてみたら、ぱーっと、おびただしい数の蛍が舞い上がったんですね。その幻想的な風景は忘れられません。
―大江さんて詩人ですね!
大江:稽古がきつかったからでしょうね。辛いことはさっさと忘れて心地よいインパクトのある記憶が残ったのかもしれません。
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只見での夏合宿稽古風景(昭和53年度):取りが大江さん
同じく只見での合宿中の集合写真:後列右から二人目が大江さん
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<インタビュー後記>
聞き手:第19代会計 佐藤(旧姓林)実知子
大江さんはとても穏やかな方なのですが、まるで画家か詩人かと思うほど鮮やかに現役当時の出来事を話してくださいました。消防の仕事は地味ですが、そこにはドラマがあり、ニュースなどで消防士達の活躍を知ると、胸がジーンと熱くなるそうです。
※ 今までは何だか気恥ずかしくてOB会に参加しにくかったのですが、田村先生への贈り物の気持ちで、このインタビューを担当させていただくことになりました。
皆様のご意見ご感想をお聞かせください。メール:tmu_aikido@yahoo.co.jp
以上
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